理想の先生像

ヨガ, 日記

「学校の先生って、えらそうだよね。」以前、勤めていた学校の児童に言われたことがある。

突然だったので、わたしは「そう?」とお茶を濁した後、「先生には、そうしないといけない事情があるのだよ!」とつまらない見解を伝えそうになった。しかし、その子がどんな言葉をわたしに期待したのだろうと気になり、続きを聞いてみることにした。

最初は、少しわがままなように思えた子どもの言葉には、少し頷けた。また、実際言われても仕方ないなと耳が痛い部分もあった。

ただ、全部「そうだね。」と答えたら、きっと大喜びして話がとんでもない方向へ行きかねない。しばらく聞いてから、「そうかなあ。」と曖昧にして、他の話題にすり替えてしまった。


学校で教師が子どものたった1つの基準になることへの恐ろしさは常に感じていた。子どもは教師を選べない。どこまで子どもの気持ちを尊重し、自分の立ち位置を貫くか。自分が基準となっていいのかと、悩みは尽きなかった。「教師は天職だ。」と言える先生方を羨ましく思ったこともあった。

ヨガインストラクターを天職と言っていいのかどうか、まだわからない。ただ、自分の信じる道を進んでいることは確か。「教師を辞めてヨガインストラクターになるなんて、どれほど気合いの入った指導をするのだろう。」と思っている方がいるようで恐縮してしまう。

気合いを入れていることといえば、「自分の良いと思うことしか提供しない」ことと「奥が深いヨガの世界を、いかにわかりやすく翻訳して伝えるか」ということ。どう感じるかはいつも生徒さんに委ねられている。決してストイックすぎる指導をしているわけではないので、ご安心を。

数年前、わたしがあるヨガインストラクターのプライベートクラスを受けた時のこと。レッスン後に先生が更新されたブログには、こう綴られていた。

「わたし自身はなにも特別なことはできないのだけれど、わたしがわたしのままでいる、という事をもってして、あなたがあなたであって良いという気づきを後押しできたらいい。」

ヨガインストラクターになろうと決めた転機となる言葉であり、今、目指す先生像だ。ヨガを通して、これから出会う方の後押しとなれたなら嬉しい。

教師をしている時の自分は「わたしである」を消しているところが多かった。子どもへ向けた言葉のように、建前が多かったし、自分のしていることへの強い自信もなかった。

今は、ヨガの生徒さん方のおがげで、信じていることが、独りよがりなものではないのかもしれないと感じ始めている。

学校の先生は偉そうだと話していた子に、今ならこう言いたい。
「偉そうだよね。でも、その先生が、未来の自分にとってかけがえのない存在となることがあるかもしれないし、残念ながらその反対もある。転機となる出会いがこれからたくさんあるはずだよ。」

また期待外れな事を言われて、あの子は不満そうな顔をするかな。読み返すと、まだ傲慢な感じがするな。
まずは「理想とする先生」とは、一体どんな先生なのかを聞いてみることからかな。もっと精進しよう。