「粗忽者な私とヨガ」|ただ、自分を観ること

ヨガ

「粗忽者な私とヨガ」|ただ、自分を観ること

先日、7年間使っていたパソコンがとうとう壊れてしまい、しばらく悲しみに暮れていました…。

8月のスケジュール更新はできたのですが、そのお知らせをNEWSに掲載できないままになってしまいました。遅くなって、すみません!
8月のスケジュールはこちら

壊れたパソコンは、もともと怪しい動きが続いていて、そろそろ買い替え時だとは思っていました。ですが、息子の仕送りが終わる3月までは粘ろうと思い、アプリやデータの断捨離をし、スリム化に励んでいました。

…そんな矢先、私がうっかりパソコンを踏んでしまって、まさかのゲームオーバー。


こういうとき、親によく言われた「粗忽者(そこつもの)」という言葉が思い出されます。
「粗忽(そこつ)」=そそっかしい
なるほど。私の人生は、その連続でした。

以前までは、そんな自分に落ち込み、責め続けていましたが、今では「まあ、そうなんだね」と、あまり深く思い悩まなくなりました。(←反省しなさい)

粗忽者の自分を、そのまま、ただ受け入れて生きていく。

そう決めたら、新しいパソコンが届いた時、「あれ?結果オーライかも?」と思えてきました。仕事がサクサク進むし、あの失敗がなければ今の快適さは得られなかったかも?と。もう無理だったのに、動かそうとしていたのかもしれないとも思いました。

ラッキーかアンラッキーか、結局はどっちでもよかった…と、自分に言い聞かせています。笑

失敗と成功、その境界も曖昧でよくわかりません。「成功=幸せ」とは限らないと気づくことが増えました。

「そのままで完全であることを知る」ことこそが、真の幸せなのではと。


こうした心の変化は、私にとってヨガや呼吸法、瞑想の学びとつながっています。

最初は健康のため、ポーズをとる楽しさや達成感がすべてだった時期もありました。でも今は、それらは「ただ自分を知る」「今の自分を観る」手段になっています。
フィットネスとしてのヨガから抜け出し、“内観のためのヨガ”へと自然に移行していたのだと、今では感じています。

何かを達成する、誰かに認められるためではなく、ただ静かな時間を大切にするようになりました。


私の場合、たとえば、痩せようと思っていた頃は、痩せることばかりが常に頭にあるから、逆に過食に。
体を柔らかくしようと意識しすぎていた頃は、いつも最大限に伸ばそうとして筋肉や関節に無理をかけて、かえって硬くなってしまったこともありました。

それって、まるで自分で起こした嵐に自ら突っ込んでいくようなものだなって。
常に「今の自分では足りていない」という思考だったのです。

でも、ヨガや瞑想では、そんな思考をなるべく手放し、今に集中していきます。
自分(または他者)が作り出した嵐に巻き込まれそうになったときでも、少し距離をとって観ていくのです。そして、たとえ巻き込まれていても、「ああ、今こんな大変なことになってるな」と観察して、時には面白がることさえできるようになりました。


かつては他と比べてばかりいて、ちょっと体重が増えただけで落ち込んだり、特に困ってもいないのに、脚の形が真っ直ぐじゃないだの、短いだの…。

子育てでも、「あのお母さんのように包み込む優しさが自分にはない」と感じては落ち込み、足りないものばかりをわざわざ抽出して数えていました。

でも今は、健康上で大きな支障がなければ、体重や脚の形や長さなんてどうでもよくて、むしろ私らしさであり、失ってみると昔の自分のたくましさのほうを懐かしく、愛おしさすら感じたりします。「ああ、悪くなかったな」と。

子育てにおいても、世間で語られる「子育て論」「べき論」「理想の母親像」には左右されすぎず、私たち親子なりの形があると感じていました。子どもととことん向き合う時間を作り、ただありのままを観て、聴いて、本音を語り合うのが私たちの形でした。そして、時には理不尽なことを言ってしまったり、ぶつかったりもしながら、互いに反省して、理解し合って、歩み寄って——。

そんな試行錯誤や日々の積み重ねがあって、今は互いを大切に思う、ちょうど良い距離感を見つけられている気がしています。


「私は今、ただそうなっている」
なるべくそのまま観て、周りの評価や価値観に振り回されず、自分自身と向き合える時間。

頑張っても、達成できても、なんだか満足できない方は、ご自身を静かに見つめる時間を、1日1分からでもOKなので、取り入れてみることを強くおすすめします。

「そうなんだね」と、呼吸と体を観察する。
そこにこそ、ヨガや瞑想の本当の意味があるように、私は思います。

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