体の声を聴くセンスを身につける
ヨガクラス後に自撮りオフショット。
ここはヨガ会場。こんなふうにヨガをしています。

前髪がゲゲゲの鬼太郎風になっても平常心を保っている画像。
普段のヨガクラスや自分の練習で、写真・動画の撮影はしていない私。その理由は、
「ヨガは見せ物じゃない」
「ポーズをみて、こうしなきゃいけないと思われるのはヨガの本質から離れる」
「写真や動画を見て真似して怪我をするリスクを防ぐ」
「北見は寒いので、撮影準備している間にすぐ冷えるので動くと危ない」
…
(改めて文字にすると、頑固親父の極みだな。)大切だとずっと思ってきました。
撮影に関してだけでなく、私は心から「そうだな」と思っていることしかできないところや、相手がどんな人かもわからないのに好き勝手なメッセージやアドバイスは言えないと思っているところがあって、本当にそういった点では不器用さを感じています。
外側から見る人にとっては、謎めいていると言われることもあって、こだわりのせいでどんどんわかりにくくしているのも自覚しています。
でも、活動に興味に持ってくれている人がいることがとても嬉しく、
「どんなヨガなのか知りたいです」とか、「普段、栄子さんはどんなふうに練習していますか?」などどご質問をいただくたびに、自分のこだわりも大事にしながらできることはないかと考えています。
そんな中、なぜ今回撮影に至ったかというと、先日久々に再会した友の一言があったから。
( )の中は私の声だし、たぶん友の言葉遣いはもっと丁寧。
言われた時は、「でもさ」と痛かったけど、
「確かになあ」ともわかっていたので、よりヨガを知ってもらえるかなと撮影してみました。

撮影してわかったことがありました。
「やっぱりヨガは外向きではなく、なるべく内向きで、今ここに集中してすべし。できるかできないかではなく、そうありたい」でした。
振り出しに戻る…。
私は撮影時に、呼吸をしっかりできていた(つもりだった)し、ポーズ1つ1つに定められた視点にも目を向けられていた(つもりだった)。けれど、それでも、意識の一部はカメラや公開後に試聴するかもしれない人に向いていて、外向きのデモになった途端にポーズから得られるものは全く別になりました。
いつもは呼吸と意識と身体が一緒にいようとしていて、できない日もあるけど集中するように心がけていて、終わったあとは若干の疲れと心地よさの中に静かにいることが多いです。
撮影中もそのつもりだったはずなのに、意図した瞬間にもう違っている。知らず知らずのうちに思考が呼吸と体の手を引いてこっちだよと誘導していたんだとわかりました。
やっぱり良いところを見せたくなって、最後でいつもより追い込みをかけていたことに、終わった後の腰と肩のちょっとした張りと違和感によって気づかされるのでした。
寝て起きたら翌日には治っている程度の張りでしたが、ただカメラを向けるという1つの行為で思考優先になった結果、こうなってしまうなんて、体の繊細さを再確認できました。

この親指を掴んだ前屈も、たった数ミリ、数センチ頑張った最後の伸びで、終わった後に少し違和感が残りました。
柔軟性が高ければそれで良いわけではないのも知っているのに。
一方で、撮影をしてみてよかったなと思う部分もありました。
日常の癖がポーズに出ていたり、可動域が広いところに頼ってしまっていたり、逆にスタンスや体勢のキープでは楽をしているなという部分もあったりと、先生のもとで定期的に学ぶ大切さにも改めて気づきました。
客観的にポーズ自体を見て色々気づけたのはよかったです。ただ、思考と体は繋がっていて、些細な変化にも繊細なんだと気づきを得られたほうが私としては有益でした。やはり、ヨガを実践し、伝える上で欠かせないところだと思います。
次に撮影するとしたら、見栄を捨てようと思うのは無理そうなので、私の場合は50%伸びてる感覚くらいでちょうどいいかも。体の声を聴く余白をあえて最初に作っておくように。(ちなみに私はいつも慎重に80%のところまで行って、待機しながら様子を見てポーズをとっています。北見の極寒では日によって60%にいることも)
いろんな自分との付き合い、センス(感覚)を身につけていく作業が割と好きです。
そして、「理想を目指して0/100になっちゃうあなたも私は嫌いじゃないな」と私の体はとても喜んでいましたし、0/100から脱して新鮮な気づきもありました。
静かに自分と向き合い、「体の声を聴くセンス」を共に身につけていけたら嬉しいです、というお話でした。
結局、ポーズの解説のような振りで、そうではなかったのでわかりにくいですかね。笑
今後のブログでも、今の段階での気づきや体験を自分だけの言葉で伝えていきたいです。

