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親の評価基準について思う

今春、息子が大学を卒業して社会人になる予定です。

子育ての最終章で幕を下ろそうという時に、最後の最後で、「私ってクズだなあ」と思う事をやってしまいました。

息子に、
「いやー、ごめん。最後の最後でまたクズ親やっちゃったわ。」
と言ったら、
「それは親として当然で、僕を思って言ってくれていると思うし、他人や世間から見てどうとかより、子供がどう思っているかが一番大事だと思うので、全然クズ親ではないです」
と。

息子の中で長年培われた、ちょっとめんどくさい母に一切の反論を許さないこの回答。笑
親の言動の裏側にある「子への不格好な愛情」を汲んでくれていたんだとわかり、救われたと同時に、やっぱり私の人としての至らなさ加減が浮き彫りになり、ちょっと情けなくなったのでした。

私はしばらく経ってから息子にLINEで
「『本当は元気でいればそれでいい』と思いたかったんだけどね」
と伝えたら、
「え?そうだったの?それって、ちょっと放任っぽくない?」
との返信。ん?あれ??
ありのままを受容できなくて、クズ親だなんて言葉を使ったけど、本人はそんなの望んでいなかった。
最終着地点でコケました。(まだオリンピック引きずってる)

私はただ必死に、お花畑で「自分のエゴに執着しないぞ」となるべく綺麗なお花を摘んで理想論語って、
「クズ親だわー」と中二病こじらせていただけなのか。(息子は一言も言ってはいない。全て私の心の声)
「世間様見てないで、こっち見てよ」(これも言ってない)

ただ、お花畑の理想論がなかったら、過去の私のように戦場で自分の正しさを武器に、押し付けてばかりいていたかもしれません。
子の思いを優先せず、世間の体裁や有利な条件を中心に言いたいことばかり言ったと思うので、違う結果になっていたかもしれません。

子が社会で生きていく上で、親の教育がどうだったかはジャッジされる場面はあるだろうし、もし向けられるものがあるとしたらそのまま受け入れるしかないけれど、
息子が語るように「親がどうかは子供が決めること」が最優先だとしたら、
もう手放すしかなくなる。精一杯やってみたことをたことを、私がいくら評価しても無駄だと気づかされました。

掲げる理想の親像の達成はできなかったし、そもそも測れないけれど、結果としてこっちでよかった。
試行錯誤する子育ての過程と今があるだけで、満足できました。

格技場で正拳突きや回し蹴りを磨いていた時期を経て、ヨガと瞑想、ヨガ哲学に出会って、なるべく平穏な日常で心身を整えたまっさらな気持ちで子に関わるよう心がけて、お花畑で花輪をせっせと作って……。
そろそろお家に帰りなさいということかもしれません。

今になって、もう一つ気づいたのは、
子は、親の言動を「子のためにしているか。それとも、親自身の満足のためか。世間からの評価のためか。」
ちゃんと見ていたと言うこと。
親は子を育てると同時に、育てられていると言われるのは本当だなと感じました。

うちの子に限らず、学校で出会ったたくさんの子供たちもそうで、毎日対面しているとなかなかわからないんだけれど、ふとしたつぶやきに
「ちゃんと大人の裏の顔や思惑までよく見ているんだなあ」
と思う瞬間が多々あって、それらに気付いてから、1年生であってもなるべく対等な一人の人として誠実に対応するように心がけるようになりました。
子を侮って子供扱いしちゃいけない。

これからは、子の心配より、自分の心配。
今後は彼に迷惑をなるべくかけないように、愛と誠実のお花畑で綺麗な花を摘みつつ、私の母や家族に感謝して過ごし、気を引き締めて現実も見て、楽しく元気に生きているかを人生の評価基準にしていきたいです。

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